説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年7月27日

「試してみよ」

    井川 正一郎 牧師

マラキ書 3章1−12節

中心聖句:

 「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。−万軍の主は仰せられる−わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を、あなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。」(10節)

教訓:主は時として、我々に試してみよと語られる。


導入

 BC440年頃、バビロニアでの補囚からネヘミヤの指導によりエルサレムに帰ったユダヤ人は、城壁を修理再建し、生活を始めました。が、望んでいたような繁栄はなかなかやって来ません。ユダヤの民たちはやがて神に対してつぶやき始め、「神様は我々を顧みられないのではないか?」などと言い始めたのです。この様な時、冒頭の聖句はマラキを通じて語られました。

 クリスチャンの神様に対する信仰は、自分の全存在を神様に任せきってしまう、委ねきってしまうという、一般的にみますと冒険的な要素を含んでいます。この「試してみよ」ということばは、我々の信仰に対するチャレンジのことばとなっています。

 ここで神様は「試してみよ」とおっしゃられていますが、聖書の他の箇所では「神を試みてはならない」と書かれています。例えば、イエスが荒野で悪魔に挑発した際、イエスはすかさず「あなたの神である主を試みてはならない」(マタイ4章7節)と語られました。また、使徒の働き5章では聖霊を欺いたアナニヤとサッピラが死という報いを与えられ、同じく使徒の働き15章のエルサレム会議でペテロは、割礼の問題に対して「なぜ神を試みようとするのです」と語りました。

 ではなぜ、神様はここで「試みてみよ」とおっしゃられたのでしょう。今日はこの問題について、3つの角度からメッセージをお伝えしたいと思います。


(1)神の特別な挑戦・挑発であるから

 冒頭の箇所で言う「試み」とは、神への挑戦としての試みのことではありません。むしろ神様の側から我々に投げかけられた、我々自身の自分自身への挑戦、あるいは我々の信仰に対する試験のことを指すのです。

 多くの場合神様は、われわれに「さあこれをやってみなさい」と言うような挑戦を与えられます。ただこの挑戦に対してどう応答するかは、人間の自由意志に委ねられているのです。神様から与えられる「さあこれをやってみなさい」と言うような問題は、私たち人間にはその意味が全く分からないものから、明らかに損をしそうなものまで様々なものがあります。ここで、神様の言う「試み」と言う言葉が意味を持ってくることになります。信仰を持つ人は、そこで神のことばを最優先し、その場面で意味がよく理解できなくとも、それが神の真意であることが明らかであれば、それに従って行動することになります。この時私たちの側から言ってみれば、神様に従うことはある意味で冒険的なことであり、それを指して「試みしてみよ」と言われているのです。言い換えますと、「わたしを完全に信じ切ってみなさい」とおっしゃられていることになるのです。

 冒頭の箇所の「試してみよ」と言うことばは、その当時のユダヤの民の信仰の状態に対する挑戦でもありました。当時のユダヤの民は神様に対して反抗的な態度をとっていました。この不信仰の内容は「どのようにして」と言うことばを含む文の中に示されています。

「どの様にして、あなたが私たちを愛されたのですか?」(マラキ1:2)

「どの様にして、名を蔑みましたか?」(1:7)

「どの様にして、あなたを汚しましたか?」(2:17)

「どの様にして、私たちはあなたの物を盗んだのでしょうか?」(3:8)

結局、当時多くのユダヤの民は、そのような神様のメッセージに答えることができませんでした。そのようなユダヤの民に値する神様の答えは、彼らを拒絶されることでした。「受け入れない、受け取れない」と言うキーワードを含む文をみてみますと、彼らへの神様の思いがよくわかります。

「受け入れない」(1:10)

「受け入れるだろうか?」(1:13)

「うけとらないからだ」(2:13)

こういう状態の故に、神様とユダヤの民との真実な結びつきは、キリストの日の到来まで、実になお400年を待たねばならなかったのです。


(2)神の特別な約束であるから

 神様は冒険的にご自分の教えに従ってきた人間に対して、もれなく100%、祝福を授けて下さいます。それは、すぐにわかることもあれば、何十年も経ってわかることもあるでしょう。唯こここで皆さんにわかっていただきたいことは、神様は全てを捧げるという者に対しては、祝福を約束されているということなのです。

 神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。(マタイ6章:33)

 この場合「試してみよ」と言うことばは、その試練を乗り越えれば自動的に祝福を与えると言う、実に強い神様の約束が秘められているのです。


(3)神の特別な願いであるから

 元々神様は私たちになにかを願い求める必要などない方です。ただ、人間に対する深い愛とあわれみの故に、我々に祝福を与えようと、ここまでの言葉をおっしゃられたわけです。ですから、冒頭の箇所のような例は、実に特別な神様の取りはからいであると言えます。いつも神様が御自分を「試してみよ」とおっしゃられている訳でないことも、憶えておきましょう。

 これ程までに特別な神様の働きかけを無視し続けることは、大変良くないことです。それはやがてマラキ書3章に記されているような全面的な不信仰につながります。そのような者と、信仰を持ち続けた者は、必ず区別されるときが訪れるのです。(マラキ3:16〜18)


 ここで信仰を持っている状態というものが含む3つの要素について整理してみましょう。

1)神様が常に臨在すると言うことに対してうなずくことができる。

2)神様が常に我々の最善を願い、また最善に導き賜うと言うことにたいして、うなずくことができる。

3)神様に常に任せきったり、頼り切ったりしても大丈夫であると言うことにたいして、うなずくことができる。

さて、皆さんはどうでしょうか?



生活への実践、適用

1.「試してみよ」とおっしゃられている神様にうなずき、「試して」みてご覧なさい。そして神様が用意された、祝福を受け取ってみて下さい。

2.しかし、この「試してみよ」と神様がおっしゃられていることは、特例中の特例であることもよく理解しましょう。間違っても、神様に挑戦したり、ちょっと「試してみたり」しないようにしましょう。


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