礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年4月15日

復活節に臨み

「キリストの復活に与る(あずかる)」

竿代 照夫 牧師

ローマ書6章1〜11節

中心聖句

6:5  もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

(5節)


はじめに

 先ほどローマ人への手紙6章が開かれましたが、今日の中心的な聖句として第5節を取り上げたいと思いますので、ローマ人への手紙6章5節をご一緒にお読み致しましょう。

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

1.復活は事実である

 今日は世界中のクリスチャン達とともにキリストの復活を祝う日であります。キリストは今から2千年前、十字架にかかり、死んで葬られましたが、その3日後に甦られました。

 これはいわゆる精神的復活ではなく、同時代の独立した多くの目撃者達によって証言された事実です。同時代に書かれた文書がそれを裏付けています。弟子達はその復活によって勇気づけられ、復活の福音のために命を捨てました

2.復活は大切である

 キリストの復活こそがキリストの救いをして実効的なものとし、今の世において私達に生きる力と勇気を与え、来るべき世に対する希望を与えるものです。実にクリスチャン達が日曜日に礼拝を守っていますのは、この日にキリストが甦られたからであり、クリスチャン達は復活を毎週記念しているのです。

3.復活は体験される

 それは過去の出来事というだけではなく、私達の生活の中で大きな意味と力を持ったものです。それがバプテスマの式の中に意味されているのです。パウロの時代には浸礼が一般的であり、クリスチャンは水の中の葬られました。

 この葬りの儀式によって、古い人生を葬り、キリストにある新しい生涯に甦るのです。古い生涯への徹底的な断絶が、よりいきいきした復活の生涯へと導きます。そのことがローマ6章で説明されています。


A.キリストの死

1.キリストの十字架とは? >罪に対する完全な離別

 10節に「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれた」と記されています。この一度ということば(エファパックス)は「一度にして完全に」という意味です。その極限の苦しみ(肉体的、精神的、霊的)を身代わりとして受けなさったことによって、罪の問題(私達の犯した過去の罪、現在的弱さ)に終わりを宣告なさったのです。「完成した。」という十字架上の最後の言葉が勝利の宣言でした。

2.バプテスマとは?

 @葬りの式

 「キリストとともに葬られた」(4節)とありますが、パウロはここでバプテスマの形式に言及しています。全身が水に浸けられることによって、その人は(象徴的な意味で)死ぬのです。そして彼が水の中から出てくるとき、彼は(象徴的な意味で)生命の復活を得ます。彼の過去の罪深い生活は終わりとなり、神にある新しい人生が始まるのです。

 Aキリストの死と自分を一体化する式

 3節では「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみなその死にあずかるバプテスマを受けた」と記されています。この節では、バプテスマとはキリストにつく(intoエイス、くっつく)ものであり、それはキリストの死に「あずかる」ものであると説明されています。

 キリストにつくバプテスマを受けることは、キリストが十字架についたという教えを受ける事だけではなく、自分も(彼と共に精神的な意味で)十字架についた、つまり、彼の死と自分は一つになったという信仰を表す儀式なのです。

 5節は別な比喩で同じ真理を語ります。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて」という植物的な解説です。私はこの接ぎ合わす(シンフュオー=共に+成長する)とは、接ぎ木または寄生植物のようなイメージでの説明と取ります。そうすると復活も同じになるという4節後半の説明と一致します。

 B古い人(罪の性質)が滅びる

 6節の「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」過去の罪だけではなく、その罪をもたらす罪の性質が滅ぼされる事を意味します。

 C罪の奴隷でなくなる

 6節の後段がこれを解説しています。奴隷というのは、自分の意志に反して仕えさせられる人の事です。私達は皆悪いことはやめねばならぬと思いつつ、「分かっちゃいるけどやめられない」のです。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)

 キリストの十字架は私達をこの奴隷状態から解放して自由を与えます。クリスチャンになると不自由になるというのは全くの誤解です。自由に良いことが出来るようになるのです。

3.一体化をもたらすものは? >信仰

 11節の「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」との言葉は二つの事を示唆しています。

 第一は、バプテスマを受けて罪に対して死んだ筈のクリスチャンがどっこい完全には死んでいなかった可能性です。これは何とか処置すべきです。第二、そこで、本当にキリストの十字架の恵を自分のものと結びつける鍵が提供されます。それは「思う」という信仰です。その信仰を確認するとき、恵が私達のものとなります。


B.キリストの復活

1.キリストは死から甦り、栄光の姿に変えられた

 4節では「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように」とありますが、キリストは(仮死状態からではなく)肉体的には死んだ状態から、神の力によって甦らせられたのです。しかも栄光の姿に!

2.私達もキリストの復活に与る

 @新しい命に歩む

 4節の「私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」とは、今までとは違った原理、力、希望を持った人生が始まることを意味します。この言葉は、「命の新しさに歩む」という強意の表現です。

 Aキリストと共に生きる

 8節の「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」私達は孤独ではなく、エマオの途上で弟子達に語りかけ、聖書を解き明かされたそのイエス様が共にいて下さいます

 Bキリストにあって生きる

 11節に「キリスト・イエスにあって」と言う表現があります。これは、私達の絶えざるより頼み、を意味しています。

 C神に対して生きる

 10と11節に出てくる表現です。これは、私達の生き方、人生の目標を示します。神の栄光のために生きる生き方、こんな素晴らしい人生があり得るでしょうか。これこそ人間が本来創造された目的への回復です。


終わりに

 で、最後に申し上げたいことは、どのようにして私たちは、力と喜びとまた希望に満ちた生涯を送ることが出来るのだろうか、それは、キリストの死に本当の意味で一体化したかどうか、もっと言いますならば、自分が死にきっておりますかどうか、ということです。

 植物は何でもそうですけれど、ジャガイモの種でも、自分が完全に死にきると新しい命が生まれて来ますね。ジャガイモでも、俺は生きているぞ、しかし、子供も作るぞ、そういうのはないんです。

 もし私たちがこの世にあって、何か喜びに欠けているな、何か力に欠けているな、何か希望をはっきり持っていないような気がするな、という場合、スタートがもしかしたら、はっきりしていないのかも知れません。

 もう1度、5節を読んでみましょう。

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 ですから、今日の最後の質問はこれです。

 「私たちは、『自分がイエス様と共に十字架についた、俺が、俺が、俺が・・、というものを主張し続けるのでなくて、イエス様が私の中心です、イエス様の栄光をあらわすことが私の人生の目的です。』とはっきり告白出来る信仰に立ったことでしょうか。」それが1つの質問です。

 もう1つあるんです。「接ぎ合わされる」(5節)ということは、ある時接ぎ合わされてOKだ、というものではないんです。それなら、ボンドとかのりでいいんです。けれど、植物的な、絶えずそこに留まり続け、そこに寄り頼み、そこに養分をいただくと言う意味において、ある翻訳では、「共に成長する」といっているものもあります。

 「共に生きて行く」、「イエス様と共に生きていく」、この継続な主イエス様とのつながりが、毎日毎日の聖言を読み、お祈りをし、あるいは、思い巡らしをするといった私たちの地味な霊的生活の中に養われ、育っていく必要がございます。

 その時にこそ、イエス様の復活の命が私たちのような者を通して、あらわれることでありましょう。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2001.4.15