礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年4月22日

行いの伴わない「信仰」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ2章14−26節

中心聖句

26 行ないのない信仰は、死んでいるのです。

(26節)


始めに:

1. きょうの箇所は「信仰と行い」を扱っているヤコブの手紙の中心部分です。

ヤコブの勧めは、26節の「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」という言葉に要約されます。

2. 特に24節の

ヤコブ2:24  「 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない。」というヤコブの声明が、

パウロの「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」(ローマ人への手紙3章28節)と一見矛盾することから、ヤコブはパウロの主張に反論していると見る人もいました。

信仰義認を宗教改革の柱としたマルチン・ルターは、このヤコブの手紙の価値を認めず、「藁−わら−の手紙」と読んだ程です。燃やすしか価値が無い、と考えました。

しかし、その前後関係を詳しく学ぶと、このパウロとルターは、実質的には同じ事を言っていることが分かります。

3. 背景的なことから見ましょう。

ヤコブの手紙の執筆が紀元前45年から48年と推定され、信仰義認を強く打ち出したパウロのガラテヤ人への手紙が紀元前48年頃、ローマ人への手紙が56年頃の前ですから、ヤコブがパウロの手紙を見てこれを反論したとは考えられません

強いて言えば、パウロの教えた信仰義認をうわっつらだけ理解して誤解した人々が与えた離散ユダヤ人クリスチャンへの影響を心配したと見ることが出来ましょう。

4. パウロは救いは「信仰のみによる」と言いつつも、

ローマ3:31「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

と語っていることに目を留めて欲しいのです。

本当の信仰は律法の行いとなって現れるというもう一つの真理を忘れてはなりません。

その角度から見ると、ヤコブの「信仰だけではなく行いも」という主張と、言い方は違いますが究極に於いては同じ事になるのです。


A.本物でない信仰 

さて、この事を心に留めつつ、今日は14−19節に限定して、ヤコブが問題にしている「本物でない信仰」について纏めてみます。

ヤコブが、ヤコブ2:14「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

と二回語っている信仰とは、本当の信仰ではなく、かっこつきの「信仰」です。 

この人が信仰を持っているとヤコブは言っていません。彼が信仰を持っていると称している、思い込んでいる、あるいはそのような振りをしている、と言っているのです。

つまり、信仰と称する偽物を警戒しているのです。では、その信仰とは何でしょう。

1. 言葉だけで実行が伴わない

1) 口で愛していると言いながら、他人の必要に全く鈍感であり、実行もしない口先の信仰です。

2) 15、16節に

ヤコブ2:15「もし、兄弟また姉妹のだれか(特に教会内部の者達、しかも姉妹への言及が強調的)が、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなとき(そういう状況でありながら今まで気づかずにいて、たまたまその事実に気が付いた時)に、       

2:16あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

とその例が挙げられています。説明を要しないほど明らかでしょう。

誰かが「着る物がなく」(言語では裸で)立っているときに、ただ口先で慰める、着物を分け与えようともしない。腹が減って死にそうな人に「祝し給え」と祝福しても腹は満たされないでしょう、とヤコブは語っているのです。

3) 言行不一致に関するヤコブのこの厳しい指摘は、主イエスのパリサイ人への非難と相呼応するものです。

マタイの福音書23章3−4節で、主は律法学者、パリサイ人たちについて主は

マタイ23:3「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。

23:4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。

と語られました。本当に厳粛です。

4) 私達も、こうした言行不一致を犯してしまうことが無いでしょうか。

祈りの大切さは知っているが祈らない、伝道は大切だが引っ込んでしまう、愛は大切というが実際は何にもしない、という風に言っていることと行っていることがグーンと離れてしまっていては、本当の信仰と言えないでありましょう。

5) 何の役にも立たない:ヤコブの手紙2章14節で、

ヤコブ2:14「・・・何の役に立ちましょう。」と言い、さらに16節で

ヤコブ2:16「何の役に立つでしょう。

と繰り返されています。直訳では、「その利益は何か?」です。

誰に対して役に立つとか立たないとか言っているのでしょう。

第一は具体的な助けを必要とする人々の役には立たない、という点です。

でも、それだけではなく、神の目から見て役に立たない、神を喜ばせないのです。永遠の裁きの座に立つとき、私達の行いが問われることは、マタイの福音書25章42−43節の預言からも明らかです。

その時、

マタイ25:42「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

25:43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。

と宣告を受けてしまいます。それが、「救わない」(14節)という表現に現れています。

これも主イエスの教えを思い出させます。マタイの福音書7章21節で、主はマタイ7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

と言われました。

これは一見、行いが救いに導くのではないというパウロの教えと矛盾しているように見えます。

しかし、そうではありません。行いに現われないような嘘の信仰では駄目だというのは、ヤコブにも、主イエスにも、パウロにも共通した教えです。

2.頭の合点だけ

1) これは、神の存在を頷き、正しい神学さえ持っているが、個人的な信頼と愛と服従に結び付いていない頭の信仰です。

19節のヤコブ2:19「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いして(麦の穂波がざわめくように)います。

という言葉は、正統信仰は大事だが、それだけではとても不十分であることを示しています。

ヤコブの手紙の受取人はユダヤ人クリスチャンでした。彼等は聖書に従って「神の唯一性」を堅く信じ、その他の教えも信じ、神の民としての契約の印である割礼を誇りとしていました。ヤコブは、それだけでは不十分と言っているのです。

2) ウェスレーは19節を「悪霊の信仰」という表現で、悪霊でさえもある種のクリスチャンよりはずっと正統的な信仰を持っていると(やや皮肉を篭めて)言っています。

彼らは神の存在を信じています。神は正義であることも、全能であることも信じています。でもその心がねじ曲がっていますから、愛なる神の下に立ち返って悔い改めようとはせず、むしろその裁きの可能性に震えています。

同様な記事がマルコの福音書5章7節にあります。

悪の霊に憑かれた男がイエスに向かって「いと高き神の子、イエスさま。」と叫んでいます。

彼のイエス観は良い加減なクリスチャンよりも遥かに正統的です。でも彼等は救われましたか?否です。彼等はイエスを愛しより頼むのではなく、その清い存在を嫌って逃げ出しました。

3) 私達も、しっかりと聖書は教えられ、聖化の教理も教えられ、保っているかもしれません。それは立派なことです。

でも、神により頼むことという人格的な傾倒なしにただ頭だけで合点する頷きは、何の力にもなりません。

4) ヤコブは、ヤコブ2:17「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだもの

と言っています。その中に生命力が愛とか喜びを生産する植物のような生命原理が働かないという死の状態なのです。


B. 本物の信仰

では本物の信仰とはどのようなものでしょうか。これについては次回20節以下で詳しく学びたいと思いますが、今日は項目だけを挙げることに留めましょう。

1.良い行いに現われる(18節)。

2. 自分の罪深さ、弱さを真実に認め、それを悔い改めることから始まる信仰。

3. 主イエスのみが私を救うことが出来るという救い主への個人的なより頼みから始まる信仰が本物の信仰です。

信じるという言葉(へブル語のアマン)が堅くしっかりしたものに寄りかかるという意味を持つことを良く説明しますが、その様なキリストへの個人的な信頼と愛と服従を含む信仰が本物の信仰です。

その様な信仰は必ず行いに現われてくる筈なのです。

3.行いと共に働いて人を義とする(22、24節)。


終りに

1. 18節のヤコブの挑戦に目を留めたいと思います。

ヤコブ2:18「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって(この順序が強調的)、私の信仰をあなたに見せてあげます。

信じるという行為は目に見えるものではありません。内心の信仰は、何かのバロメーターではかれるものではありません。それは良き行い、愛の行いによって外側に出てきて、そこで計られるのです。

2. ヤコブの結論を間違ってはいけません。信仰、信仰等と口先で言わずに、良い行いをしっかり頑張ろう、と取ったらヤコブはそれは誤解だよと言ってがっかりすることでしょう。

外側を飾ろう、頑張ろうではなくて、外側に実が実らなかったら、何か内側に問題があるのではないか、と反省しへりくだって、信仰の出発点を確認することが今日私達に求められていることではないでしょうか。

3. 現代の日本で期待されているのは、「見せる信仰」ではないでしょうか。

見せびらかすのでもなく、態とらしい行動態度でもなく、自然であってもいいのですが、そのものの言い方、真実さ、愛において何か普通の人の持っていない素晴らしいものがある、これは一体どこから来るのだろうかと言わしめる、そういった信仰こそ求められています。


Message by Rev.Teruo Saoshiro Edited by Kenji Otsuka,April 27th,2001