礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

200247

復活節後礼拝説教

「生ける贖い主」

竿代 照夫 牧師

ヨブ記19章7〜29節

中心聖句

19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

25節)


はじめに

  ヘンデルのメサイアのキリストの復活の部分では、このヨブ記19章25節が独唱によって謳われています。復活節を越えて、ペンテコステに向かう本日、このヨブ記19章から、生ける贖い主について学びたいと思います。


A.絶望のヨブ

 この章においてヨブは彼の絶望的な状況を告白しているのを見ることができます。その苦しみは三つの分野に分けることができます。

1.友に責められる

 第一は、友に責められているということです。19章の2節から3節には次のように書かれています。

19:2いつまで、あなたがたは私のたましいを悩まし、そんな論法で私を砕くのか。
19:3
もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる。

 ヨブの三人の友、エリパズ、ビルダデ、ゾパルはそんなに意地悪な、冷たい人間ではありませんでした。少なくとも最初は苦難のどん底にあったヨブを励ますためにやって来ました。ヨブのあまりの苦しみを見た3人はかける言葉もなく、ただ黙って、ヨブと一緒に座っていました。ただ黙っているのは、とても友情のこもった慰め方ではないでしょうか。
 そのうちに彼等はヨブの苦しみは彼の隠れた罪に起因するのではないかと考えて、ヨブに悔い改めを迫ります。彼らの基本的な考え方は因果応報です。何か悪いことをしたからばちがあたるというのは日本でも普通の考え方です。
 ヨブはその心を正直に自己吟味しましたが、悔い改める罪は何も見つかりませんでした。それほど彼は純粋に神を畏れて生きてきた人だったのです。そして、三人に向かってそんなことはないと答えます。そのヨブの態度は、三人を硬化させます。そういう態度がおまえの罪だと言って、彼らはヨブを責め始めます。そしてヨブの身に覚えのないことまで、あげつらって糾弾を始めました。それでヨブは「いつまで、あなたがたは私のたましいを悩まし、そんな論法で私を砕くのか。もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる。」(2、3節)と言っているのです。
 もし、私たちの敵が自分を責めるのであれば、あきらめもつくでしょう。しかし、自分を心配して慰めにきてくれた友達が自分を責め始めたのは、ヨブにとって耐え難い、つらいことだったのではないでしょうか。

2.神に打たれる

 さらにもっと辛いことは、彼は神によって打たれているという自覚を持っていたことです。最初に財産が奪われ、子供を全部取られ、健康を損なわれたそんな苦しみにぶつかったヨブは、最初の時こそ健気にも「主は与え、主は取りなさる。主の聖名は誉むべきかな」(1:21)と雄々しい信仰の告白をしましたが、その苦しみが続いたとき、やがて彼は生まれてきたことをのろいます。そしてだんだん苦しみがつのってきたときに、彼は神様をうらむようになります。彼は、全ての事柄の背後には神がいなさるという信仰をもっていましたから、神様はなぜ私をターゲットになさるのですか、という不平不満を持つようになりました。ここでひとつ素晴らしいことは、彼はどんなに打たれても、その不満は神ご自身に向かって述べました。打たれても打たれても、神に近づこうとしたのです。

 19章の8節から11節を読んでみましょう。

19:8神が私の道をふさがれたので、私は過ぎ行くことができない。私の通り道にやみを置いておられる。
19:9
神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた。
19:10
神が四方から私を打ち倒すので、私は去って行く。神は私の望みを木のように根こそぎにする。
19:11
神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のようにみなされる。

 神を信じ、神に従っていこうという彼の精神は変わっていませんが、その神様がなぜ自分を目の仇にするのか、不可解だと感じていました。しかし、ヨブの救いは、それを神ご自身の前に持ち出したという点です。

3.家族から捨てられる

 3番目に、彼は家族から捨てられました。

13ー17節を見ますと、

兄弟たちは遠ざかり、
知人は離れて行った、
親族は来なくなり、

 お金があるときは、先客万来でもお金がなくなると、親戚や知人は皆急に疎遠になってしまいました。さらに、

親しい友は私を忘れ、
寄宿者、はしためたちも、外国人のようにみなし、
しもべは呼ばれても返事しない、
妻は息を嫌い、・・・

 歴史の中に3大悪妻と呼ばれる妻がいるそうですが、ヨブの妻はその中の一人です。

 ここには、誰もが疎遠になり、忌み嫌い、孤独と自己嫌悪に陥ったヨブの姿が描かれています。

 誰がこの文章を涙なくして読む事が出来ましょうか。誰がこのような苦しみに耐える事ができましょうか。このような苦しみを経験した人が歴史に存在するでしょうか。私は一人だけいると思います。それはイエス・キリストです。私達の多くは苦しみに遭うと、「どうして私だけがこんな目に遭うのだろうか。どうして私だけがこんな苦しみに会わなければならないのだろう。」と自分の不遇を嘆きがちです。どうかそんな時、ヨブとイエス様のことを思い出して下さい。
 ヨブはどうやってその苦しみを乗り越えたのでしょうか?それは25節に記されていますように、贖い主というお方をとらえたときに、彼の心は一変するのであります。


B.贖い主による希望

  何故ならば(For)という言葉で25節は始まります。これは彼の確信の根拠を示します。

1.贖い主とは?:落ちぶれた人を回復させる親族(ゴエル)・神

 今までルツ記を学んでおりましたので、贖い主という言葉についてはその中でご説明しましたが、ここで復習します。贖い主とは、落ちぶれた者を買い戻して回復する役目を負った一番近い親戚のことで、へブル語でゴエルと呼ばれました。
 その制度を通して神が何を私たちに教えようとしたかと申しますと、神ご自身が私たちの贖い主であるということです。出エジプト6:6を見ますと、「私がイスラエルをエジプトの束縛から贖い出そう。」と語られています。

2.ヨブの発見:贖い主としての神

 ヨブはこの贖い主としての神を見出したのです。「私は知っている 」という言葉は大変強いもので、私は強く全き確信をもっている、という意味です。神は彼を責め苛むお方としてではなく、単に彼を裁くお方としてではなく、彼を贖うお方と見出しました。ヨブは、その家族や親族からも全く見離され、何の希望もない状況の中で、天の神は自分を見放さないで最終的には自分を贖ってくださるお方であるということを、信仰の目をもって捉えたのです。 

3.二つの解釈:

  「私を贖う方は生きておられる」という言葉は多くの聖書解釈学者を悩まして来ました。これについては大きく 言って二つの解釈に分かれています。一つは、イエス・キリストによる人類の贖いを預言したものと言う解釈、他の一つは、現在の試練が終えた後に最終的にはヨブに健康的な回復と、繁栄が与えられると言う解釈です。
 いずれにしましても、その二つに共通した一つの真理は、「ヨブは聖霊の特別な霊感を受けて預言的な発言をしている」と言う点です。絶望のどん底の中で、この神から与えられたこの光によって、彼は大きな救いを得ることができました。
 ちょうどこれは、アブラハムがイサクをささげなさいと命じられたときに、「イサクは殺されても復活する。」という信仰に達したのと非常に似ています。ヨブは、自分の肉体が朽ち果てても、新しい復活の体が与えられ、親しい友として神と相まみえることができるという信仰に達しました。アブラハムは「イサクを殺せ。」という神の命令と、「アブラハムを通して全世界を祝福する。」という約束の矛盾について考えたとき、最終的に、イサクを殺しても復活するのだという信仰に達しました。
 当時復活という思想は一般的ではなく、ヨブももともとそういう思想を持っていたわけではありませんでした。
14章10節を見てみましょう。

14:10しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。

というふうにして、彼は死んだらそれでおしまいと考えていました。その中で彼が復活という思想を得たのは神の導き以外のものではありません。

4.生ける贖い主:永遠の命の保証

 このお方は生きておられるというのがかれの最大の発見です。
 「生きている」とは、単に死なないで生きているということではありません。生命の源として、今も生き、将来も生きておられるお方、その意味を彼は生きているという言葉の中にこめています。彼は肉体がはぎとられ、今にも朽ち果てようとしていましたが、やがて新しい肉において神を見ることができるという素晴らしい復活の思想を持つことができたのは、神が生きておられるからであり、その神は私の贖い主であるということに気づいたからです。

5.裁き給う贖い主

 そして、その神は最後の日に地上に来られ、正しいものと悪しき者を裁きなさいます。

14:25私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

 「立つ」とは、審判のために立つことです。「ちりの上に」とは、死んで塵に帰った者の上にということで、単なる地上と言うよりも、死を克服してという意味があります。これは死者の復活を暗示しています。

 私達はこの世に正義はあるのだろうかとか、なぜ神はこのような不正を許しなさるのか、正直に生きている人がばかをみていると感じることがあるでしょう。しかし、私達は神が全ての事を真昼のように正しなさると言う確信を持つべきです。 

6.復活のキリスト:エマオの途上のように

 ヨブはそのときにははっきりと認めることはできなかったかもしれませんが、彼の預言はイエスキリストによって成就いたしました。イエス様は、私たちの罪を背負って十字架にかかって死をとげなさり、そしてその3日後によみがえられ、永遠の命が与えられることについての大きなデモンストレーションをなさいました。
 イエス様は、私達の贖い主として、私達と共に生きて傍らを歩みなさるお方です。彼は私達と同じ血肉を持つ兄弟として受肉され、この地上生涯を歩み、復活後は落胆してエマオへの道にあった二人の弟子と共に歩みなさいました。

7.個人的な贖い主:「私の贖い主」

  私たちが地上でどんなに厳しい経験をしても、イエス様が私達とともに歩んで下さるということを信仰の目を持ってとらえたいと思います。私たちは、聖書の御言葉を通してイエス様の御心を知り、お祈りを通して主と物語ることができます。電車の中でも、役に立たない広告を見るのではなく、心の中で主と物語るときに、主は私たちといつも共にいてくださるのです。

 


終わりに:私達への希望

 本日は最近ワールドゴスペルミッションのジーン・ルートン先生からお聞きした素晴らしいお話をもって締めくくりたいと思います。

 今から100年ほど前、アフリカからその奉仕を終え、引退する為に一組の宣教師夫婦が船に乗りました。何と、その船にはケニアで動物狩りを楽しんだセオドア・ルーズベルト大統領が同船したのです。船がニューヨークの港に着くと、素晴らしいファンファーレが奏でられ、赤絨毯が敷かれ、大勢の群衆が歓呼の声をもって彼を迎えました。

誰からも迎えられなかった老宣教師は奥さんに呟きました。「何かがおかしい。」と。「私達は一生涯をアフリカに捧げ家に戻って来たのに誰もかまってくれない。一方で、ライオン狩りを楽しんできただけの男が家に帰って来ただけで、こんな大袈裟な歓迎が行われているなんて。」妻は答えました。「あなた、そんなこと言うもんじゃないわ。」

その夜二人は港の側の安いイーストサイドホテルに泊まりました。老宣教師はまた妻に言いました。「やっぱりおかしい。神様は公平に人を扱っておられないんじゃないか。」妻は言いました。「そんなこと私に言わないで、神様に直接言ったらいいじゃないの。」

暫くして、老宣教師はお祈りをした後、輝いた顔をして妻の所に戻って来ました。その変わり様に驚いた妻は尋ねました。「あなた、一体どうしたの?」

「うん、主は解決して下さったよ。私は主に申し上げたんだ。大統領が家に帰ってくるなり大歓迎を受けたのに、私達が家に帰ってきても誰もかまってくれないのはどうしてですか?って。僕はその時主が私の肩に手をおいてこう言って下さったように感じたんだ。『君はまだ本当の家に帰った訳じゃないよ。』って。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on 2002.4.20



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