礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年4月20日

召天者記念礼拝

「わたしは、よみがえりです」

竿代 照夫 牧師

ヨハネの福音書11章17〜27節

 

中心聖句

25-26 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

ヨハネ11章 25-26節)


始めに

1.イースターと召天者記念礼拝

 今日は全世界のクリスチャン達と共に主イエスの復活を祝うイースターであり、また私達の教会にとっては召天者記念礼拝でもあります。

  一昨年まではこの礼拝は前の牧師達の召天記念日に因んで、6月とか7月に持たれておりましたが、昨年からは4月の第三日曜日に変更しました。教会の頭であり給うキリストの復活に因んで、私達の復活を待ち望むという意味からは、この節季の方が相応しいと考えたからです。

2.召天者の記念

 週報と一緒に配られた召天者リストにはこの30年だけで200名近い方々のお名前が載っています。それ以前に亡くなられた方々のアルバムも作られており、ロビーに展示されています。こうした人々は、最近教会に来られた方にとっては単なる名前の羅列でありましょうが、幾分かでもその生涯、人柄、残された足跡を知っている者たちにとっては、実に多くの教訓、励ましを頂くリストであります。

 私達の教会が今日このようであるという背後に、このような方々の犠牲があり、祈りがあり、証があった事を夢忘れてはなりません。教会というものは不思議なもので、今ここに集まっている人数は200名そこそこですが、広がりから言えば、世界の何十億というクリスチャン達の連帯をしめす世界大の教会の一部でありますし、長さから言えば、2000年の歴史を経た共同体ですから、既に天国に帰ったもっと沢山の仲間を会員として持つ大きな教会の一部でもあります。

 神は活けるものと死せるものの主であるという聖書の言葉があります<「生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエス」(第2テモテ4:1)>が、このような機会に、私達はそのような目に見えない大きな共同体の一部であることを自覚するのです。

3.テーマ聖句

 先ほど読んで頂いた25、26節をもう一度お読み致します。

25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 このキリストの言葉の意味を、この記念日に心に留めたいと思います。


A.どんな時にこの言葉が?

1.ラザロの死と姉妹達の悲しみ

 キリストはその活動の拠点をパレスチナ北方のガリラヤに置かれましたが、教えを広める為に何度かエルサレムを訪問されました。エルサレムの東側3kmにベタニヤという小さな村があり、旅行の休憩地点としてキリストはしばしば立ち寄られました。そこにキリストを信じる家族があり、姉マルタ、妹がマリヤ、弟がラザロと呼ばれていました。そのラザロが若くして病死してしまった事が、この11章の物語の背景です。マルタもマリヤもそれを深く悲しみ、キリストが死ぬ前にベタニヤ村を訪れて、その奇跡の力をもってラザロを直して下されば良かったのに、と嘆く訳です。

2.主の慰めと励まし

 それに対してキリストは、ご自分は命の源であること、生死の鍵も、更に、死人を活かす力も与えられている神の子である事実をもって彼女たちを励まします。それが25、26節の言葉の背景です。

3.ラザロの復活による実証

 死んでから4日経て、腐敗の始まったラザロではありましたが、横穴式の墓の入り口の石を取りのけ、キリストは一言「ラザロよ、出てきなさい。」と叫びます。それにより、体を白い布でぐるぐる巻にされたままのラザロが、まあ、ミイラのような格好で歩いて出て参りました。

 「布を解いてやりなさい。」とキリストは一言語られただけで物語は終わるのですが、このラザロが復活したことが大きなセンセーションを呼び、イエスをキリストと信じる人も多く起きましたが、同時に、この人を生かしておいては大変とばかりに反対運動も先鋭化し、十字架にと流れが向かうのです。このような背景を理解しながら、キリストの言葉を味わって見たいと思います。


B.聖句の意味

1.「わたしは、よみがえりです。いのちです。」=命であるキリスト

1)キリストは命の源

 この言葉の真意は、生命を与え、保ち、或いは回復する全能の力を持ちなさることを示しています。キリストは命の与え主です。彼にあって私達人間は生きるものとなるのです。

2)キリストは罪と死に打ち勝った(復活はその証拠)

 もっと言いますならば、キリストは命と反対の概念である死に打ち勝ちなさったお方です。聖書によれば、死は人間の罪から齎されたのです。キリストは死の根本原因である罪の解決の為に十字架にかかり、死に打ち勝ったという証明として、その三日後に復活されました。

 第一コリント15章を読みますと、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(55〜57節)

3)ラザロをも活かし得る

 その甦りの力をもってするならば、ラザロは今でも甦ることは可能だ、とキリストは言っておられるのです。このようにして、主は彼女の希望を呼び戻し、信仰を活性化し、主は単なる人ではなく、存在の源なるお方であることを示されました。


2.「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」=キリストにある死者の生命

1)神の懐で平安と喜びの中にある

 既にキリストを信じたか、これから信じるすべての者は、その信仰によって自然的な死を止めることはできないけれども、「パラダイス」と呼ばれるいわば永遠の至福への待合所のような所で、イエスの懐に憩う安息と喜びの生涯を生きるのです。

2)キリスト再臨の時栄光の体に甦る

 キリストが再び世に来られるとき、既にキリストにあって死んだ死者は甦る:彼の体は、復活の体と呼ばれる栄光の体に変えられ、永遠にキリストと共に住むものとなるのです。

3.「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」=現存キリスト者の復活経験

 今罪と咎とによって神に対して罪と咎とによって死んでいる全てのものはだれでも、もし彼が私を信じるならば、彼は生きます(聖霊によって活かされ、信仰の命と愛の働きによって生きるものとなります)。キリストにある死者は、命の源であるキリストとの結合の故に今も生きるのです。


C.私達への語り掛け

1.甦りの主を見つめよう

 「私はよみがえりです。」と確信をもって語られるお方を見つめましょう。人類に死と悲しみと苦しみをもたらす罪に対して100%の解決をなさった方、その解決の証拠として復活された方、今も生きておられるお方、「私は甦りです。」(甦りをもたらすかも知れない、甦るかもしれない、のではなくて、甦りです、と断言された方)この希望の主に私達の信仰を繋ぎましょう。

 クリスチャン新聞の4月20日号に加藤望という牧師の証が載っていました。彼は昨年9月にアメリカで肝臓移植の手術をうけて二度目の人生のスタートをした人です。移植しか助かる道がないことを告げられながらも、もうこれで終わりだという諦めと、死の恐怖との混じり合った気持ちに揺れていました。その時、復活の主が「おまえの使命はまだ終わっていない。」という迫り来る促しを感じました。彼の不信仰は取り除かれました。僅かの期間で献金が集められ、ドナーが与えられ手術は成功しました。

 かれは「今も生き給う復活の主は・・・私に新たな命を継がせて下さったのです。」と告白しています。彼の言おうとしていることは、復活の主の存在と力は今も昔も変わらない、しかし、そのキリストの力を妨げているのは一重に私達の側での不信仰だ、ということです。ですから、今日もキリストは「このことを信じますか。」と私達に問いかけておられます。私達の答えが、「はい、信じます。」でありたいものです。

2.召天された方々の復活の日を待ち望もう

 今写真やリストの中にある人々はそのまま墓の中に朽ち果ててしまうのではありません。今その魂は愛するキリストの懐に憩っておられますが、やがて彼が最後の審判の為に地上に来られる時、彼らは栄光の体という新しい肉体の中に復活するでありましょう。その時の光栄、その時の喜びはどんなに大きなものでありましょうか。彼らが数十年前微笑んだ同じ微笑みをもって互いに挨拶し、天国で主都中央教会の同窓会が開かれるのです。

 これはおとぎ話や空想物語ではありません。聖書がはっきりと預言していることです。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(第一テサロニケ4:16−18)と記されています。

3.私達も復活に備えよう

 黙示録という本の中に、神の言葉に忠実に従い、神に従い続けたものが、この様な光栄ある復活に与るのだと記しています(黙示録20:4)。こんな素晴らしい復活の日に私達が全くその場所から離れて暗いところに追いやられてしまったら、どんなに淋しいことでしょうか。ここにおられる召天者ご遺族の皆さん、どうか彼らが待っている天国に向かう旅路に歩み始めて下さい。その希望が私達の日々の生活の力であり指針となるのです。

 同じ日のクリスチャン新聞に、広尾の日赤医療センターのホスピス医として働いておられる茅根義和さんという人の証しも載っていました。彼は年間120人の患者をもう一人の同僚と一緒に診ているのですが、「死を看取った人と再び会えるという復活信仰が、この医療を続けてこられた支えになっています。」さらに、「亡くなることは悲しいけれども、看取る自分はその向こう側を信じることができる。そこに希望がある。そうすることで、別れがつらさだけにならずにすんでいます。」と語っています。

 私達も愛する方々と再び会えるという信仰を持って、希望をもってこの世の旅路を続けたいと思います。

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 私たちはどう答えましょうか。お祈り致しましょう。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.4.20