| 礼拝メッセージの要約 |
| (教会員のメモに見る説教の内容) |
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| 聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。 |
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| 2005年12月18日 |
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| 「ひれ伏して拝んだ」 |
| 待降節講壇(4) |
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| 井川 正一郎牧師 |
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| マタイの福音書2章1-12節 |
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| [中心聖句] |
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| 2 |
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 |
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そしてその家にはいって、母マリアとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 |
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| (マタイの福音書2章2,11節) |
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| 1.東方の博士たちの物語 |
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| (1)東方=メソポタミヤ地方=異邦人 |
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| 東方とはエルサレムから見て東に位置する地方ということです。アッシリヤ、バビロン、ペルシャがあったメソポタミヤ・アラビア地域、異教の地を指しています。そこは数百年前に、ユダヤの人々が捕らわれとなっていた土地でした。また偶像礼拝や魔術や占いなどが盛んに行われていた土地でした。その土地、地域からやって来た博士たちです。異邦人の博士たちです。 |
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| (2)博士=星占い、占星術の専門家 |
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| 「博士たち」とはギリシャ語で「マゴス」と言います。もともとはペルシャのゾロアスター教の祭司階級を指す言葉でした。天文学、占星術、夢解釈等を学び、国家や人々の運命を占うのです。ここでは、天文学と関わりのある人々、或いは星占い、占星術の専門家の意味での博士です。 |
| 星等の天体について多くの知識を持っていて、それに基づき手色々な洞察を持つことができていたに違いないのです。そして、ある時、特別な星の動きによって、ユダヤ人の王となるべき方がお生まれになったことを知ったのです。彼らは何等かの接触によって、ユダヤ教の知識、或いはある程度の聖書の知識もあったのかも知れません。それによって、ユダヤ人が新しい王、救主を待ち望んでいることを知ったのです。その知識と天体の観測とが一致して、ユダヤ人の王の誕生を確信したのでしょう。 |
| 彼らは、東の地で特別の星を見ました。イエスの星です。民数記24:17に「ヤコブから一つの星が上り」とあります。そして、その特別な星を見て、それに関する知識と経験に基づいてエルサレムに、はるばるやって来たのでした。まさに、「はるばる」です。 |
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| (3)人数は不明=複数 |
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| 博士たちの人数は不明です。3人と特定はできません。しかし、複数です。博士たちがエルサレムに到着しました。ユダヤ人の王の誕生地はエルサレムではないことを知って、そこで自分たちがはるばる東の方からやって来たことの理由と目的とを説明しています。マタイ福音書はこうして、ユダヤ人によってではなく、異邦人によって、救い主誕生の出来事を語らせているのです。 |
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| (4)そのことを聞いた人々の反応 |
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| そのことを聞いた人々の反応が次に描かれています。はじめに、ヘロデ王の反応。次に、エルサレムの住民たちの反応。そして、エルサレムにいた学者たちの反応、回答です。学者たちは、ベツレヘムがその場所であると正確に言い当てます。旧約聖書ミカ5:2です。言い当てることはできるのですが、その本質を全く弁えない学者たちでもあったのでした。 |
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| (5)幼子との出会い |
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| 博士たちは再び、あの東方で見たと同じ星の導きによって移動したのです。南に7キロにあるベツレヘムに向かいました。ついに幼子の所に導かれました。幼子と書いてあります。ルカには「みどりご」とあります。 |
| ルカの記事は誕生直後、マタイは生まれてから暫くたっていました。2歳以下と言われているから、その程度の年齢ではないでしょうか。ついに幼子に出会ったのです。彼らはひれ伏して礼拝しました。加えて、持参した黄金、乳香、没薬をささげたのです。そして、ヘロデの悪巧みを知らされて、別の道を通って自分の国に戻ったのです。 |
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| 2.物語からの教訓 |
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| この東方の博士たちの物語から、多くの教訓を我らは学ぶことができます。 |
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| (1)救主に対する慕い求め |
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| はじめに、救主に対する慕い求め(=巡礼者、礼拝者、求道者の姿を見る)を学ぶことができます。 |
| @救主に対する関心、知識 |
| A聖書に基づく求め、導き |
| B救主に会いたい(行ってみたい)との意欲、求め |
| C東方からはるばる |
| D星に導かれて(外的しるし・啓示) |
| E救主に対する礼拝=ひれ伏して拝んだ |
| F別の道を通る |
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| (2)霊的教訓 |
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| また、霊的教訓を学ぶことができます。 |
| @意欲、求め |
| A導きに従う |
| B礼拝の実践(信仰、献身、謙遜) |
| C別の道を行く(新しい信仰生涯の道) |
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| 3.今日の学び(「ひれ伏して拝んだ」から) |
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| ひれ伏して拝んだ=クリスマスは主イエスに対する礼拝 |
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| きょうは更に、焦点をしぼって「ひれ伏して拝んだ」の言葉を学びたいと思っております。クリスマスは礼拝です。ひれ伏して拝むものがクリスマスです。 |
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| 11 そしてその家にはいって、母マリアとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 |
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| ひれ伏して拝んだとあります。ここには、マリヤに向かってでない、「彼に」という言葉があります。たしかに「幼子」=主イエスにひれ伏して礼拝しました。誰を礼拝するかをはっきりとさせている礼拝です。ひれ伏す相手をしっかりと理解している礼拝でした。ひれ伏す相手をしっかりと理解している礼拝でした。 |
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| (1)自発的、心からのもの |
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| 自分達から自発的に、関心、求め、意欲をもって、遠い距離をもろともせず、この場所までやってきました。はるばるやってきました。強制でも義務でもありません。いやいやでもありません。喜びと感激をもっての、心の奥底からの礼拝です。ひれ伏して拝みました。「彼らはひれ伏して幼子を拝み」とある通りです。 |
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| (2)ひれ伏すもの、心を形にあらわしたもの |
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| クリスマスとは、クリストのマス、つまりキリストのミサ、キリスト礼拝の意味があります。「ひれ伏して拝み」(ペソンテス、プロセクネーサン=二つとも礼拝との意)、こういう礼拝の仕方は、聖書の民イスラエルにはないとも言われています。イザヤ書、詩篇では王がひざまずくという箇所がありますが、ともかくもひれ伏すとは東方、オリエント地方の人々の風習だというのです。オリエントの人々は、王様の前でそのようにしました。だから、博士たちは自分たちの風習の最高の姿勢で主イエスを礼拝したことになります。 |
| 宗教の大前提は、心の問題です。心が扱われるものです。でも、その心は生活、形、外側にあらわれ出るものです。ウェスレーはキリスト者が積極的な行い、生活、外側にあらわれ出て来ないような、宗教経験のあかしを疑ったのです。本当の宗教経験、信仰経験、キリスト経験は心だけで終わらないのです。それが幼稚でこどもぽかったり、不完全な形であっても、生活に、態度に、形にあらわれ出て来るものなのです。博士たちは、ひれ伏して拝んだのであります。 |
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| (3)ささげるもの、差し出すもの(自分のすべて) |
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| 黄金、乳香、投薬をささげました。「宝の箱をあけて」とあります。ギリシャ語原文では「宝をあけて」で、「箱」はありません。遠くから運んで来る場合は箱でなく、袋であろうか。特産物等を王にささげることは古代中近東ではよく行われていました。博士たちがささげた贈り物について、今日までさまざまな意味づけが試みられてきました。 |
| 贈主であった博士たちは、何らかの意味を込めてこれらの贈り物を整えたのか。それとも単に、故国の最上の土産品を携えてきたに過ぎなかったのか…。後者だったかも知れません。しかし、マタイが、贈り物の一つ一つにわざわざ言及しているのは、読者がそこから何らかの意味を汲み取ることを期待していたようにも思えるのです。黄金、乳香、没薬の夫々の意味をです。 |
| 彼らの星占いのための商売道具であったかも知れません。これらによって博士たちは生計をたてるとか、人々に大事な告知をしていたかも知れません。それを今、幼子イエスに献げています。自分たちにとって最も貴重なものを主にささげることによって、彼らは自分自身を主に献げているのです。 |
| 要は、博士たちは自分たちのすべてをささげた、差し出したのです。黄金、乳香、没薬だけでないのです。それを象徴するかのように自分の働き、人生の道、生涯すべてを主にささげたことを意味するのです。 |
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| しめくくり |
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| (1)何としても、「私」の救い主に出会う |
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| 何としても、「私」の救い主に出会うことです。博士たちはエルサレムまでは星に導かれてやってきましたが、ベツレヘムにたどりつくにはたしかに聖書が必要だったのです。キリスト教、神の存在等を調べるには学問、自然観察、理性等の働きはたしかに有効ですが、しかし、キリストにたどりつくには、キリストの救いにあずかるためには聖書が必要なのです。聖書の導きによって、キリストを知るのです。そのお方がいかなるお方か。私にとって、どなたか。私の救い主として会いたいものです。 |
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| (2)ささげ続ける生涯を送ろう=一生涯、礼拝! |
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| 心と形、生活に表わすのです。礼拝とは自発的、犠牲をもいとわない、時間、財産、からです。そして人生すべてを。 |
| 「ひれ伏して拝んだ」、これが今日のメッセージです。ご一緒にお祈り致しましょう。 |
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