礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2010年11月7日
 
「目を覚まして歩む」
第一テサロニケ書連講(15)
 
竿代 照夫 牧師
 
第一テサロニケ5章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  6   ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
(第一テサロニケ5章6節)


 
聖書テキスト
 
 
1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
 
はじめに
 
 
前回は、4:17の「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」という聖句を中心に、再臨のときに起きる死者の復活と生者の栄化、そして、永遠に主と共にいる栄光の重さを学びました。5章はその思想が続いており、主の再臨は何時起きるのか、それにどう備えるのかという実生活の課題に入ります。11節まで、次の三つの文節に分けてその主題を考えます。
 
1.主の再臨は、思いがけない時に起きる(1-3節)
 
 
1 兄弟たち。それらがいつ(クロノス=時代)なのか、またどういう時か(カイロス=時点)については、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3 人々が「平ら和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
 
・突然性――盗人のように、予告無しに起きる:
先週は、4:16から、主はこそこそとではなく、王様として堂々とやってくるとお話ししました。それと、この場所で「盗人のようにやってくる」ということばは矛盾しないかと思われる方もあるでしょう。よく分かります。ここで、盗人のようにと言うのは、主のご来臨が予告無しに起きるという突然性を示します。主は、誰にも気付かれずに来られる、気がついてみたら財布がなかったという、スリのようなお方ではありません。

・意想外――平安を唱える人々の意表を衝いて起きる:
神を計算に入れない、また、真実な悔い改めを伴わない、安易な平和主義が横行しているときに、その意表をつくように主はお出でになります。これは、主イエスが、「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)と語られたのと共通です。こんなに晴れた日に、洪水などおきる訳も無いと頭から決め付けていた人々に、主は突如洪水を与えなさいました。今でも、安易な人間進歩の思想が存在しています。人間がより賢くなり、より進化すれば、争いの無い社会を作ることができるという楽観的なものの見方です。聖書は、そのような努力を否定はしませんが、その延長としての神の国ではなく、キリストの再臨という直接的干渉によって、神の国が到来することを予言しています。

・不可避性――妊婦のお産のように逃れられない:
妊婦のお産は日付こそ何ともいえないまでも、確実に大きなお腹になっていくわけですから、いつかは子どもが生まれる(パンクする)時が来ます。これは不可避的です。それと同じように主のお出でを待ち望む私たちも同じです。主のお出では確実です。しかし、それが何時訪れるかは、誰も分かりません。
 
2.昼の子供として生きる(4-9節)
 
 
4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
 
・昼の子供が恐れることはない:
泥棒は大体夜やってきます。真昼間に堂々と唐草模様の風呂敷をかつぎ、手拭を頬かむりにして(ちょっと古いでしょうかね)やってくる泥棒はいません。パウロは言います。私たちは昼の子供、神の光の中を歩んでいる子供なのだから、夜にしか襲わない泥棒を心配する必要はない、と。つまり、主イエスの再臨を戦々恐々とした思いで待つのではなく、堂々とお待ちすればよいです。クリスチャンがクリスチャンらしい生き方をしているならば、何も恐れることはありません。

・「眠らないで」目を覚ましていること、しかも「慎み深く」あること:
そのためには、「目を覚まし続ける」ことです。当然のことながら、主を待ち望むために、一睡もしないと言うことではありません。睡眠がなければ、人間は死んでしまいます。ここでの覚醒と言うことは、霊的な意味での覚醒です。「目を覚まして」の前には、「眠らないで」としるし、それに続いては「慎み深く」と言う言葉が使われていることに注目しましょう。「眠る」とは、キリストの再臨への無関心を示します。「酔う」とは、無責任な行動を示します。「目を覚ます」とはそれに対比して、注意深く、待ち望む心を持つことです。「慎み深く」とは、精神的に落ち着いた気持ちの事で、主の再臨が近いと言う思いから、舞い上がって日常生活が手につかなくなるようなことから守られるべき事を示唆しています。

・5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女:
ここで思い出すのは、花婿を待つ10人の乙女のたとえ話です。5人は賢く、残りの5人は愚かでした。賢い乙女たちはランプに予備の油を持っていました。他の5人は、ランプこそ持っていましたが、予備の油がありませんでした。どんな状況でも間に合うようにと言う用心深さがなかったのです。実際、花婿の到着は大変遅れて、真夜中になりました。10人とも眠りこけていましたが、それは問題ではなかったのです。むしろ、飛び起きた時に予備の油を使って補充をしたか、それは計算外だからと町へ買いに行かねばならなかったかという違いです。主イエスの締め括りは厳粛です。他の5人は永遠に切歯扼腕するし、最初の5人は永遠の幸せに入るという大きな違いが齎されました。このたとえ話で大事なのは、主がこの愚かな乙女に対して「私はあなたがたを知らない。」と突き放されたことです。油を携えるという事は生命的に大切なことだったことが分かります。

・「目覚める」べき勧め:
「目覚めよ」という命令を新約聖書全体から学びますと、幾つかの内容を伴った行為であることがわかります。

◇第一は、堅く信仰に立つことです。(Tコリント16:13「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。」)

◇第二は、悪魔に対して警戒を怠らないことです。(Tペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

◇第三は、祈りを継続することです。(エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」コロサイ4:2「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」マタイ26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」)

◇第四は、僕としての務めを怠らないことです。(マタイ24:42-45「目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。」ルカ12:37「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」)

◇第五は、聖霊の油を絶やさないようにすることです。(マタイ25:13「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」)

◇第六は、間違った教えに警戒することです。(使徒20:30-31「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」)

◇第七は、死にかけた信仰を回復することです。(黙示録3:1-2「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」)

・救いの完成を待ち望む姿勢:
パウロは、眠らない、夜に生活しないと言うネガテイブな言い方から、積極的な言い方に転換します。それが「しかし」という言葉です。これに続いて「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」これらの武具はエペソ6章にある完璧な武具と対照されます。でも大切なのは、中身です。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶと」を身につける、とは、パウロの得意な信仰・希望・愛の三角形を示します。特に、現在的な救いを頂きながら、その完成を望みつつ歩む、求道者的な姿勢を指していることを汲み取らねばなりません。
 
3.希望によって励ましあう(10-11節)
 
 
10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
 
・主とともに生きることがキリスト者の幸せ:
先回は、再臨のときから主と共に生きる幸いを語りました。私たちは、主を顔と顔を合わせて相見るその日を待ち望みますが、この現世においても、目には見えませんが、主と親しく交わる喜びを持ちます。日々のデボーションにおいて、主と親しく交わり、物語り、聞き、祈る幸いな生活を更に深めて行きたいと思います。

・励まし、立て上げ合いなさい:
丁度、再臨の希望によって、愛する方を亡くした遺族を慰めるように、私たちはこの救いの喜びの大きさをもって、互いを励ましあい、互いの立て上げを行うことができます。私たちの全ての言葉が建徳的でありたいものです。
 
終わりに
 
 
私たちは、本当に目覚めているでしょうか。パウロが語っている意味では、目覚めるとは、主の再臨の確かさをしっかり捉えて、それに合わせて、私たちの信仰生活を整えていくことです。

今日、イエス様がお出でになったら、間に合うような信仰、祈り、伝道の姿勢を示しつつありましょうか。学生たちは、抜き打ちテストにいつでも備えていますけれども、私たちキリスト者も目を覚ましつつ歩もうではありませんか。
 
お祈りを致します。