礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年4月1日
 
「ロバの子に乗った王様」
パーム・サンデーに因み
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイの福音書21章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  5   見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ロバの背に乗って
(マタイ21章5節)


 
聖書テキスト
 
 
1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ロバがつながれていて、いっしょにロバの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ロバの背に乗って、それも、荷物を運ぶロバの子に乗って。』」
6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。7 そして、ロバと、ロバの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
10 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。
 
はじめに
 
 
今日から、主イエスが地上最後の生涯を過ごされた受難週に入ります。その始まりは、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城されるパレードです。今日は、そのロバに注目したいと思います。
 
1.主イエスがエルサレムへ向かう(1節a、地図参照)
 
 
「それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。」           _
 

主イエスのご生涯における最後の旅行は、ペレヤと呼ばれるヨルダン川の東側から始まって、エリコを通り、エルサレムへと向かいます。エリコはエルサレムから30kmほど東にある町です。そこから約1千メートルほど標高差のある山道を登りに登ってエルサレムにたどり着くのです。エリコからエルサレムに至る最後の休憩所がその手前のオリーブ山の麓にあるベタニヤ村です。そこで一休みされるのがいつものパターンでした。ベテパゲという地名も出てきますが、この場所ははっきり分かりません。たぶん、ベタニヤとエルサレムの間の小さな村ではなかったかと思われます。ベタニヤに一休みされて、その西寄りにあるベテパゲという村に二人の弟子を派遣されました。
 
2.ロバの子を求める(1節b−3節、6節)
 
 
「そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ロバがつながれていて、いっしょにロバの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。・・・ そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。」
 
・向いの村で:
その二人の弟子は、「向いの村(多分、ベテパゲ)に入ったら、誰も乗ったことのない子ロバが母ロバと一緒に戸口に繋がれているのを見る、そのロバの子を連れてきなさい」と命じられました。だれかが文句を言ったならば、「主がそれを必要としています。」と意志表示をして、堂々と連れてきなさい、と命じなさったのです。大変乱暴な、行き当たりばったりの命令のように見えます。しかし、主イエスは超自然的な能力で、向かいの村の状況を衛星テレビでも見るようにキャッチしておられたのでしょう。

・「主が入用なのです」:
しかも、主イエスは、このロバの子の主人とは顔見知りであったと思われます。二人は命じられた通りに向かいの村に行きますと、案の定、ある家の戸口にロバの母子が繋がれていました。二人が綱を解いて連れてこようとしたとき、どうしてそんなことをするのか、と持ち主とその周りの人々が聞きました。彼らはイエスに言われたとおり、「主がお入り用なのです。」と答えます。ロバの持ち主とイエスとの間には阿吽の呼吸があったのでしょう。この二人は無事にその使命を果たして帰って参ります。
 
3.なぜロバの子の背に?(4−5節)
 
 
「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ロバの背に乗って、それも、荷物を運ぶロバの子に乗って。』」
 
・歩くのが辛かったから?ノー:
主イエスは、なぜ、ロバの子に乗って旅行をされたのでしょうか?くたびれたからでしょうか?そうは思えません。というのは、マルコ10:32−33を見ると「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。・・・』」と書かれているからです。これは、ペレヤからエリコに向かう途中の様子ですが、主イエスは、十字架に向かう最後の旅行で、弟子達が恐くなるほどのキリッとした御顔をエルサレムに向かって先頭を歩かれたのです。死を覚悟しながら早足で歩きなさった主イエスの姿に、私は厳粛な思いにさせられます。多分、いつもは、周りの人々と和やかに会話をしながら歩いて居られたので、主イエスのこの時の早足が、弟子達には驚きだったのでしょう。だから、主イエスがくたびれてタクシーでも拾おうというような状況でなかったことは確かです。

・その目的は:
主は、はっきりした目的を持ってロバを求められました。その目的は何だったのでしょうか。

@「メシア」であることを示す:
主イエスがロバの子にこだわられたのは、ゼカリヤの預言の為です。そこを読みましょう。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ロバに乗られる。それも、雌ロバの子の子ロバに。」(ゼカリヤ9:9)これは明らかにメシア預言です。新しい王国が生まれる、そのリーダーがロバの子に乗ったメシア(救い主)だと言うのです。主がこの預言を意識しながら「子ロバ」に乗りなさったのは、口でこそ言いませんが、「私は預言されていたメシアです。救いをもたらす王様です」と公表されたことを意味しています。実はそれまで、人々が不必要に騒ぎ立てないために、ご自分のメシア性を努めて隠して居られました。しかし、この最後の週に入って、主イエスは自らを覆っていたベールをかなぐり捨て、来るべきメシアであることを世に示されたのです。このことが、ご自分の命を縮める結果となることは分かっていました。受難週の前にラザロを生き返らせた時、反対者達は、このイエスを絶対に殺してやろうと思うようになりました。ヨハネ11:53を見ると「彼ら(パリサイ人たち)は、その日(ラザロの復活のころ)から、イエスを殺すための計画を立てた。」とあります。同じく12:10にも、ラザロ事件以来、イエス殺害計画が固まっていることが示唆されています。主イエスが、自分はメシアであると公言すれば、彼らの殺害計画に口実を与えます。でも、主イエスは、それを分かっていながら、エルサレムに入ろうとされたのです。

A平和のしるし:
ロバの子に乗る王様とは、「柔和で」と記されているように、平和の象徴です。戦争に使われるのは馬です。ロバを使って戦争をすることは先ずありません。軍馬という事はありましょうが、軍ロバというのは聞いたことがありません。ロバに乗った騎兵、ロバに乗った将軍なんてサマになりませんね。ロバは平和をもたらす王様に相応しい動物です。しかも主イエスの乗ったロバは、大人のロバではなく、子ロバです。大きくなったばかりで、人間を乗せるのがやっとという弱々しいロバです。優しさの象徴です。ゼカリヤ9:9の続きの10節では、「私は戦車をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」と記されています。この方が平和的であるだけではなく、この方が平和を齎すのです。

B遜りの象徴:
普通の王様は馬に乗ります(1列王20:26のベン・ハダデ、その他アハブとヨシャパテ、エフー、ヨラムなど・・・)王様がロバに乗るというのはちょっと奇妙です。ロバは値段も安く、目立たない動物です。重い荷物を背中に背負って文句も言わずにポクポクと歩いている、そんな動物です。大切な財産でありながら、余り注目されません。私もケニアでロバを沢山見ました。何か虐げられていて、人々の苦労を一身に背負っている、そんな印象を持ちました。他の種類のロバは知りませんが、ケニアで見たロバは例外なく、背中に十字架のマークがありました。象徴的です。そのロバに乗った謙った王様、それが主イエスでした。
 
4.凱旋的パレード(7−9節)
 
 
「そして、ロバと、ロバの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。」
 
・敷物を敷く:
主イエスの所に連れて行かれたロバの子は、その背中に弟子の上着を敷かれました。鞍が付いていませんでしたから、鞍代わりのクッションだったのです。主イエスが求めたのではなく、弟子達が自然にそうしたのでしょう。上に乗ったのは重いイエス様でした。ロバの子はちょっとよろよろしましたが、やっと踏ん張って立ち上がり、歩き始めました。生まれて初めての経験です。するとたちまち、人々が着物を脱いで道に敷き、棕櫚の枝を振りながら、イエス様万歳、って叫び始めたのです。その声はどんどん大きくなってきました。偉い人が通る道には赤絨毯が敷かれますね。自分の着物を道に敷き詰めて、王様を歓迎する、という習慣は昔からありました(2列王9:13にあるエフー王の例)。

・木の葉を打ち振る:
人々は、木の枝葉を敷き、打ち振りました。これは棕櫚(ナツメヤシ)で、葉は手のような形です。その実は甘く、干すと、葡萄のような味です。ナツメヤシの葉は輪にして祝い事に使われていました。その葉を打ち振ることによって、歓迎の意を表したのです。つまり、主イエスを救い主と認めて賛美したのです。

・ホサナと叫ぶ:
ホサナという言葉の意味は「ホーシーアー(救って下さい)・ナー(今)」(ヘブル語)で、のこの言葉は詩篇118:25の「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。」から来ています。イエスは救い主!という信仰が表明されたのです。彼らはイスラエルの回復を確信して。「祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。」と叫びました。このホサナの大合唱は、受難週の直前に起きたラザロの復活がきっかけとなったとヨハネは記しています(ヨハネ12:9)。更にバルテマイの癒しはその興奮を増加させたことでしょう。前に進み、後に続きと、まさに、野球チームの優勝パレードのような騒ぎでした。
 
5.パレードの後(10−11節)
 
 
「イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、『この方は、どういう方なのか。』と言った。群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。』と言った。」
 
・反対する人々が一層頑なに→十字架へ:
主イエスの生涯の中でもクライマックスと思われるこのパレードは、エルサレムの住民に大きなセンセーションを巻き起こします。その反応は二つに分かれます。主イエスを歓迎するグループと、それに反発するグループとです。特にその直後に行なわれた宮聖めによって、イエスを殺そうとするパリサイ人、祭司長はその気持ちを固めました(12−15節)。主イエスは、このパレードによって英雄気取りになったのではなく、むしろ、人の心の奥底を知り、悲しまれました。ルカ19:41−44には、主イエスが、悔い改めず、滅びに向っているエルサレムのために涙を流して憂えておられる姿が記されています。このパレードは、華やかな凱旋というよりは、十字架に向うドラマの序曲だったのです。
 
終わりに:十字架のイエスを賛美しよう
 
 
十字架というはっきりした目標に向かって真っ直ぐに進み、私たちの罪を担って十字架による救いを成し遂げられた主を心から賛美しましょう。
 
お祈りを致します。