礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年1月25日
 
「開かれた門」
教会総会に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの黙示録 3章7-12節
 
 
[中心聖句]
 
  8   見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
(ヨハネの黙示録 3章8節)


 
聖書テキスト
 
 
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
『わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足下に来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、私の神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。』」
 
はじめに
 
 
第67次総会の朝を迎えました。2週間前の礼拝では、黙示録の7つの教会に宛てられたメッセージの内、エペソ教会へのメッセージを取り上げました。今日は、フィラデルフィヤ教会へのメッセージを取り上げます。
 
1.フィラデルフィヤについて(地図参照)
 
 
・名前の意味:
「兄弟愛」=フィラデルフィヤという名前は、「兄弟愛」という意味です。因みに北米ペンシルベニア州最大の都市フィラデルフィアとい都市があります。これは、17世紀にクエーカーのウィリアム・ペンが建設したもので、彼が「兄弟愛の町」を作ることを目指して命名したものです。アメリカ独立宣言や合衆国憲法が立案された場所としても知られています。

・交通の要衝:
さて、黙示録のフィラデルフィヤに話を戻します。地図を見ると分かりますが、フィラデルフィヤは、スミルナ港から同所を経て、その背後の高原へ通じる交通基地でした。また、ブドウの栽培とブドウ酒造りの町としても知られていました。

・ギリシャ文化・ギリシャ語を広める宣伝基地の役割:
フィラデルフィヤは、BC2世紀、アタラス・フィラデルフォスという王様によってアジヤの中でギリシャ文化とギリシャ語を伝える宣伝基地という目的で建設され、その役割を果たしてきた町です。フィラデルフィヤは、AD70年に起きた地震でダメージを受け、地震の恐れの中に生きていました。町は皇帝によって再建され、ネオ・カエサレヤとも呼ばれるようになりました。しかし、人々は町を囲む壁の中ではなく外側に住む傾向にありました。こうした地理的な状況が、「開かれた門を置く」と語られた背景でありました。
 
2.フィラデルフィヤ教会
 
 
・叱責されていない例外的教会:
そのフィラデルフィヤの教会に対しては、他の教会に宛てられたような非難は何一つ与えられていません。幸いなことです。

・「わずかな力」を用いて宣教に貢献:
この教会は、決して人数も多くなく、強力でもなかったのですが、そのわずかな力を用いて、福音の拡大に貢献した宣教的な教会でした。ですから、自分たちの持っている冠を奪われないようにと、やや消極的な勧めがなされている訳です。では、フィラデルフィヤの教会に前に置かれた門とは、何の門なのでしょうか。特にこの文節の中で説明はありませんが、前後関係から見ると、福音を広げるための「開かれた機会」のことと考えられます。
 
3.開かれた門
 
 
さて、「開かれた門」という言葉について、聖書の他の箇所はどのように語っているかを見たいと思います。

・異邦人に開かれた門(使徒14:27):
そこには「(パウロ達は)教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」と記されています。これは、パウロの第一次伝道旅行からアンテオケに帰った時の宣教報告の一部です。この場合の「信仰の門」とは、救いは行いによらず、単純に主イエスを信じる信仰による、という福音の神髄を語っています。異邦人が信仰に入りやすい入り口のことです。

・福音を伝える絶好の機会(1コリント16:9):
そこには、「働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大勢いる」と記されています。「働きのための広い門」とは、言うまでもなく、コリント第一の手紙を書いたエペソの町で、福音を聞こうとする人々が大勢いて、この機会を逃してはいけないとパウロが感じていた様子を表しています。(同時に、反対者の存在も無視できないことも記されてはいますが・・・。)

・福音を伝える機会(2コリント2:12):
そこでは、「私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいました」とあります。これもトロアスにおいて与えられた「福音を伝える機会」のことです。

・み言葉を伝える機会(コロサイ4:3):
ここでも、「私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。」とも記されています。これを書いた場所は、ローマの獄中です。そこでも、み言葉を伝える機会が与えられるように祈ってほしいとパウロが訴えています。

綜合すると、具体的な場所はどこであれ、門とは「宣教活動のための良き機会」ということになります。
 
4.キリストが開き給う門
 
 
・開閉の権威は主にある:
この門は、自然に開かれている門ではなく、キリストが開き給い、他の人、他の力がその門の閉じるのを許しなさらない門であります。他の人間も、はたまた、サタンの力でさえも、この門を閉じることはできません。7節に「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない・・・」と記されています。

・キリストの型エルヤキム(イザヤ22:20−25):
ヒゼキヤ王の執事で、ユダ国の危機に活躍=「ダビデの鍵を持つ」という表現は、昔イザヤがヒルキヤの子エルヤキムについて語った表現と同じです(イザヤ22:20−25)。イザヤは、ユダ国がアッシリヤから滅ぼされそうになっていた瀬戸際で預言します。ヒゼキヤ王の執事であったシェブナに対して、彼がその役割を全く果たさないために主から捨てられること、そして、その代わりにエルヤキムが代わりに執事に立てられることを預言します。イザヤは言います、「その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、あなた(シェブナ)の長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。その日、――万軍の主の御告げ。――確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。」つまり、エルヤキムがダビデ王家のキーパーソンとなることを示唆しています。実際イザヤ36:3、37:2を見ますと、王国存亡の危機でエルヤキムが活躍したことが記されています。このエルヤキムは、キリストの型と考えられます。キリストは神の国の鍵を握っておられるお方です。キリストが開けば天国の門は開き、キリストが閉じれば天国の門は閉じられます。そのキリストが、フィラデルフィヤ教会に対して「開かれた門を置く」と仰っておられるのです。
 
5.門は、御言に立つ者に開かれている
 
 
・フィラデルフィヤ教会は、「わずかな力」を発揮する点で、また、御言の真理に忠実:
フィラデルフィヤ教会のメンバーは少なく、貧しかったことが8節から想像されます。「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。」「少しばかりの力」という言葉が私には大きな希望を与えます。フィラデルフィヤ教会は、少ししか力がありませんでした。でもその力を発揮する点で忠実でした。つまり、迫害のときにも御言を守り、主のお名前を拒まない人々でした。また、異なる教えが人々を引き付けようとしたときに、断固としてその誘惑に勝ち、み言葉に従おうとしました。主はこのようなフィラデルフィヤ教会に、宣教の鍵を与えなさったのです。その鍵を通して多くの人々が主に導かれました。

・中目黒教会も!:
私たちの教会はものすごく大きくはなく、お金持ちもいないかもしれません。しかし、私たちが御言に忠実であり、キリストに忠実であれば、門は閉じられません。これから教会総会に臨もうとしておりますが、この総会を通して、私たち中目黒教会が、開かれた宣教の門を与えられていることを再確認し、宣教の使命を果たしたく願います。
 
お祈りを致します。